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昨日は何したかな?

邪馬台国はいずこ?

日本古代史の最大のミステリーは邪馬台国はいずこ?である
古代史に興味を抱くようになった人はここから入っている事がほとんどだ
自分は本来は邪馬台国九州説であったが、在る時、ふと、近畿以外に無いと考えるようになった

倭国の成り立ちから邪馬台国の位置を推定した

3世紀頃からの倭国・倭人とはとの命題に対し
大雑把には前方後円墳を作る集団と言える
日本全国には、古墳が作られなくなる7世紀後半頃までに15万基存在することからもそう言えるであろう
韓半島にもわずかに前方後円墳が見られるが、古いものではなく、倭から韓半島に渡った支配者の現地で築いた墓と考えられる

さて、邪馬台国は3世紀の魏志倭人伝に現れる
場所についての記事はあるが、明確な場所はわかっていない
この時期に極東で国として倭人伝に出て来るのは倭だけであり、4世紀になるとようやく韓半島にも国とまではいかない、馬韓、辰韓、弁韓という集団の名が現れる
ちなみに倭はすでにこれ以前から大陸と接触している

魏志倭人伝には倭の北限として韓半島の南部が記されており、倭人がいると記されている
韓半島の南部は当時の伽耶となる場所である
この場所は弁韓となり伽耶となるが、伽耶は倭の一部であり続ける
伽耶は韓半島にあった倭といえる
伽耶には有名な任那があった

魏志倭人伝の記述内容から倭国は日本列島だけでなく、韓半島南部に及ぶ大国であったことがわかる

4世紀になるとようやく韓半島にも国が芽生え、半島の史書に倭との往来の記事が見られるようになる
韓半島は馬韓、辰韓、弁韓から伽耶、新羅、百済となり、その後伽耶が亡くなり、高句麗が南下してくる時期である
韓半島の史書や記紀は、韓半島にある倭の一部である伽耶諸国が、次第に国として力を付け始めた新羅や百済から国土を削り取られていくことに関する記事がメインとなっている

当時、韓半島から倭に移住する集団が数多くあり、続々と倭の各地に根を降ろしていった
古代の倭は大国であるが人口は疎であり、比較的かんたんに住み着くことになる
移動集団は倭に移住後は倭の特徴である前方後円墳を作っている
倭で存続していくには、倭に同化すること(先住者の入り婿となり、前方後円墳をつくっていくこと)が必要なことであったようだ

倭の4世紀は空白の世紀といわれ、中国の史書には倭の記事は現れない
邪馬台国は魏志倭人伝以降は見られないが、記紀に一貫して現れるのが「ヤマト」という呼称である
この「ヤマト」は近畿地方である

記紀では、三回、西から東への集団の移動の記事がある
1回目は神武の東征である
2回目はニギハヤヒの河内への移動
ニギハヤヒ一族は先住していた長髄彦の抵抗を受けるも、入り婿となって入り込む事に成功する
3回目は応神一族の移動
ニギハヤヒ一族の抵抗を受けるが最終的には入り込む事に成功する
神武の東征は二回目と三回目の移動をまとめたものと考える

これらの移動の記事でもヤマトは近畿である

また、これらの移動はあくまでも集団の移動であり国の移動ではない
集団の移動は韓半島からの移住を含めると実際は数多くあり、その内の主なもの、即ち支配者集団に関わる移動を記紀は記録しているのである

後に支配者になる集団の移動は各地の抵抗にあい、ある場所では追い出され、ある場所では一部は入り込む事に成功し、またある場所では一旦入り込みに成功するも一部は更なる場所を求めて再び移動をおこなった
この時の様子を神武の東征として記録されていると考えられる

人口が疎な場所では先住者の抵抗は微々たるものであり、移住先の先住者の規模を遥かに超える場合は抵抗さえ行われなかっただろう
しかし、先住者による支配が確立していた場所では激しい抵抗にあっただろう
抵抗を伴った移動の典型がにニギハヤヒの移動であり、応神の移動であった
特に応神達はその後、支配者としての行動を取り始め、各地に先住していた移動集団をまとめたり、征服したりし、支配を確立していった

記紀を編纂する頃には倭国の支配者としての系譜も作られたであろうし、さらに新しい支配者として入り込んだ集団は権威付けのために、古い支配者の系譜を利用したであろうことは想像に難くない

これらの移動の記事でも中心は近畿であり続けた


卑弥呼がいたとされる邪馬台国は魏志倭人伝を見る限り倭国の中心として記述されている
記紀や古代中国、古代韓半島の史書の倭に関する記述から判断する限り、常に倭の中心は近畿である
これらのことからヤマト、即ち邪馬台国が近畿に在った事は明白である

邪馬台国九州説では,卑弥呼の後のイト(イヨ)の時に九州から近畿に移動したと主張するものもあるが、これは数多くあった集団の移動に邪馬台国の移動を重ね合わせ、本来は邪馬台国は九州にありその後近畿に移動したという邪馬台国移動説であり、九州説の変形である。いずれにせよ、邪馬台国が九州にあったという根拠が薄く、邪馬台国九州説はほとんどないと考えるようになった
by moripapa_55 | 2013-10-19 22:33 | 日常